コンピュータ将棋の世界では、まれに“将棋の神様”というものが話題に上ることがあります。これは別に、そういう名前の将棋ソフトがあるとか(将棋ウォーズに「棋神」というサービスはありますが)、そう呼ばれている人がいるとかいうことではなく、抽象的な何かを表す用語として、そういう言葉があるということです。
この“将棋の神様”は、日常用語としての「将棋の神様」とは少し異なっており、一種の専門用語であると解釈できます。ただし、専門用語ならば、本来は定義が明確でなければならないのですが、この言葉については必ずしも明確な定義があるというわけでもなく、なかなかに不思議な言葉なのです。
今回は、この“将棋の神様”というものについて、少し考えてみましょう。
本居宣長による日本の「神様」の定義
まずは、日本語の日常用語としての「神様」について、おさらいをしておきます。
日本の「神様」の定義は、本居宣長の古事記の注釈書である「古事記伝」に記された
尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物(もの)を迦微(かみ)とは云(いう)なり
が有名です。つまり、尋常じゃなくすごくて畏怖の念を感じさせるものであれば、貴賎も強弱も善悪も関係なく、何でも「神様」だというわけです。
ここでのポイントは、「神様」の定義が「畏怖」という感情によって決められているという点にあります。人間が理性的に何か基準を定めて「神様」を定義しようとしても、「神様」は人間の認識を超える存在なわけですから、測定して定義することは不可能であり、人間は感じることしかできないというわけです。
この本居宣長の理論の是非はさておき、日本の「神様」が「畏怖」の感情に由来することは確かでしょう。従って、日常用語における「将棋の神様」とは「尋常じゃなくすごいと感じさせる将棋を指す人・物」のことになります。また、これは人々の感じ方の問題であって、レートがいくつだとか、業績がどれくらいだとか、そういう客観的な評価は関係ないということが分かります。
さらに、本居宣長は「鈴屋答問録」において荒木田経雅の質問に答えて以下のように語っています。
皇国(みくに)にていうかみは、実物の称(な)にいえるのみにて、物(もの)なきに、ただ其(その)理(ことわり)を指(さし)ていえることはなき也(なり)。
つまり、日本の「神様」は、実際の物や人に限定されていて、抽象的な概念や理論は除外されるということです。このことは中国の「神」との対比で語られており、そもそも「カミ」に「神」の字を当てることの問題も指摘されています。この話を現代に敷衍すると、ほとんどの宗教における「神」は理論の土台や一部として実体を有しないものであり、日本の「神様」の定義からは外れます。それゆえ、「翻訳に問題があるのではないか」という論点も生じますし、また「神道は宗教なのか」という論点も生じます。
この本居宣長の解釈を「将棋の神様」に当てはめると、例えば、将棋を指す機械は「神様」になる可能性がありますが(「電王手さん」が本体の一部なのかは難しいところですが)、ソフトウエアや仕組み(アルゴリズム)自体は「神様」にはなれないということになります。この辺は、ものづくりを重視する国柄っぽい感じがします。
さて、冒頭で述べたように、コンピュータ将棋で語られる“将棋の神様”というのは抽象的な概念なので、本居宣長の分析によれば、日本の「神様」には該当しません。ということは、“将棋の神様”というのは、少なくとも近代以降に、誰かが考え出した概念だと推測されます。それでは、誰が考えたものなのかというと、おそらくは小林秀雄だと思われます(※筆者は書誌学は全くの門外漢であるため、もしかすると、さらに古い由来が存在するかもしれません)。
小林秀雄の“将棋の神様”
小林秀雄の有名な著作の一つに「考えるヒント」というものがあります。これは「文藝春秋」に連載された短編エッセイをまとめたものであり、受験国語の必須図書に指定されることが多いため、高学歴の人間に偏って読者が多いと推測される少し特殊な本です。一般的に人間は先に取得した方の知識を偏重する性質があるとされるため、大学受験前の若い頃に読まれる本書は、特定の層に対して、知名度以上に影響力のある本だと言えるでしょう。
その最初のエッセイが「常識」(文藝春秋、昭和三十四年六月)であり、当時はまだ架空の存在であったコンピュータ将棋を題材にしています。最初の作品というのは印象に残りやすく、また、本を途中で投げ出したという人も読んでいることが多いため、本作は特に影響力の大きい作品になっています。
この作品は、自身が翻訳した1836年発表のエドガー・アラン・ポーのエッセイ「メールツェルの将棋差し(題名ママ)」の話から始まります。これは、1770年に作成されたチェスを指す自動機械「トルコ人」について、ポーがトリックを考察するという内容です。もちろん、当時の技術ではそのような機械を作成することは不可能ですので、これは手品であり、現在ではトリックも判明しています(ポーの推理とは違ってましたが)。
その後、小林秀雄自らが「東大の原子核研究所に将棋を指す『電子頭脳』がある」というデマに踊らされたという話を書き、自分達も「トルコ人」に騙されていた人たちを笑えないのではないかと内省します。
その流れで唐突に、題名の「常識」という言葉と共に、“将棋の神様”が登場します。
常識で考えれば、将棋という遊戯は、人間の一種の無智を条件としている筈である。名人達の読みがどんなに深いと言っても、たかが知れているからこそ、勝負はつくのであろう。では、読みというものが徹底した将棋の神様が二人で将棋を差したら、どういう事になるだろうか。実は、今、この原稿を書きながら、ふとそんな事を考えてみたのである。
普通に考えると、似非科学系のデマに騙されるというのは科学技術に対する認識や専門知識が不足しているためであると考えられるわけですが、ここでの小林秀雄はそういう立場は採らず、専門知識に頼らなくても、「常識」を働かせるだけでデマに対応できるのではないかと考え、思考実験を始めたというわけです。
その後、著名な物理学者である中谷宇吉郎に銀座で偶然に出会って、この疑問について尋ねています(銀座なので酒席でしょうか)。
「仕切りが縦に三つしかない一番小さな盤で、君と僕とで歩一枚ずつ置いて勝負をしたらどういう事になる」と先ず中谷先生が言う。
「先手必敗さ」
「仕切りをもう一つ殖やして四つにしたら……」
「先手必勝だ」
「それ、見ろ、将棋の世界は人間同士の約束の世界に過ぎない」
「だけど、約束による必然性は動かせない」
「無論だ。だから、問題は約束の数になる。普通の将棋のように、約束の数を無闇に殖やせば、約束の筋が読み切れなくなるのは当り前だ」
「自業自得だな」
「自業自得だ。科学者は、そういう世界は御免こうむる事にしてるんだ」
「御免こうむらない事にしてくれよ」
「どうしろと言うのだ」
「将棋の神様同士で差してみたら、と言うんだよ」
「馬鹿言いなさんな」
「馬鹿なのは俺で、神様じゃない。神様なら読み切れる筈だ」
「そりゃ、駒のコンビネーションの数は一定だから、そういう筈だが、いくら神様だって、計算しようとなれば、何億年かかるかわからない」
「何億年かかろうが、一向構わぬ」
「そんなら、結果は出るさ。無意味な結果が出る筈だ」
「無意味な結果とは、勝負を無意味にする結果という意味だな」
「無論そうだ」
「ともかく、先手必勝であるか、後手必勝であるか、それとも千日手になるか、三つのうち、どれかになる事は判明する筈だな」
「そういう筈だ」
「仮りに、先手必勝の結果が出たら、神様は、お互いにどうぞお先きへ、という事になるな」
「当り前じゃないか。先手を決める振り駒だけが勝負になる」
「神様なら振り駒の偶然も見透しのわけだな」
「そう考えても何も悪くはない」
「すると神様を二人仮定したのが、そもそも不合理だったわけだ」
「理窟はそうだ」
「それで安心した」
「何が安心したんだ」
「結論が常識に一致したからさ」
つまり、全知である“将棋の神様”同士なら、結果が分かってしまうので、遊戯として成立しないということから、「将棋という遊戯は、人間の一種の無智を条件としている筈である」(故に計算だけではなく判断が必要とされる)という「常識」が確認されるというわけです。ここでの中谷先生の受け答えは、科学者として妥当なものだと思われます。
実は、“将棋の神様”が出てくるのは、ここまでです。この後は、「機械には、物を判断する能力はない、だから機械には将棋は差せぬ(原文ママ)」のが「常識」だとして、専門知識に頼らずに「電子頭脳」の存在を否定することに成功し、当時の社会を覆っていた近代的進歩主義に抗するものとしての「常識」の重要性が説かれるという展開になっています。この主張について、現在の視点で是非を論じるのは妥当ではないでしょう。有している情報(並びに、その取得順序)や環境が違えば、考え方が違ってくるのは当然のことです。
結局のところ、原典がこの作品であるのならば、“将棋の神様”というのは、思考実験のための道具として小林秀雄が考え出したものであったということになります。コンピュータ将棋の界隈においても、筆者が目にする範囲では、基本的には思考実験の道具として語られていることが多いようです。もし思考実験の道具であるのならば、確定した定義がなく、その都度、定義が異なるというのも理解できます。
また、“将棋の神様”が、日本の「神様」を意味しているのではなく、“全知”なる存在としての“神様”を意味しているのは、「人間の一種の無智」と対比されていることからも明らかでしょう。ただし、ここでの“全知”には複数の解釈が可能であり、これもまた定義が唯一に定まらない要因となっています。
長くなってきましたので、定義の詳細な分析は次回に行うことにしましょう。
- 次の記事:「“将棋の神様”ってなんだろう? 2:完全解析と予知」
コメント