コンピュータ将棋基礎情報研究所

コンピュータ将棋に関する基礎的な情報を収集し、分析し、発表する所です。英語名称はLaboratory for Fundamental Information on Computer Shogi (LFICS)。

2016年02月

これまで「手数と投了 2:棋士の投了手数」「手数と投了 4:floodgateにおける投了手数」の記事において、いくつかの棋譜集における投了手数の分布を示してきました。これらの分布の形状には何か見覚えがあるような気がしていたのですが、よくよく考えてみたら、ガンマ分布に近いのではないかと思い至りました。もしかすると、筆者以外にもそのように感じられた方は多いかもしれません。そこで今回は、本当に手数分布がガンマ分布に近いのかをざっくりと比較検証してみたいと思います。(いつも以上に)ギークな話になるかもしれませんが、興味のある方はご一読ください。

ガンマ分布というのは、正の変数xに対して、\[f(x) = N x^{k - 1} e^{- x / t}\]という関数で書き表せる連続分布のことです。Nは規格化係数であり、形状母数kと尺度母数tは、平均mと標準偏差sから、\[k = \frac{m^{2}}{s^{2}},~~ t = \frac{s^{2}}{m}\]のように決定されます。この分布は平均と標準偏差のみで決まり、他に余分な変数を含んでいません。

比較する手数分布は、棋士棋譜集(2015年11月版)とfloodgate棋譜集(2012~2015年版)から、レート差200以内で256手までの投了棋譜に限定し、先手勝利と後手勝利とに分けて規格化を行って得られたものです。それぞれの棋譜集については、以下の記事をご覧ください。

両者を同時にプロットすると以下のようになります。青線がガンマ分布で、黒点が手数分布です。ここで、棋士棋譜集(2015年11月版)は、棋譜数41855、平均116.1、標準偏差27.88となっており、floodgate棋譜集(2012~2015年版)は、棋譜数98565、平均131.7、標準偏差32.41となっています。

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グラフを見ると、ピークの部分で手数分布がガンマ分布をやや上回っており、精密に一致しているとは言えないようです。ただ、分布の概形はそれなりによく一致しており、形状フィット用の変数を含まない分布としては、それなりに優秀なのではないかと思われます。この結果を見る限り、近似として、正規分布を使うのならば、代わりにガンマ分布を使った方がよいということは言えそうです。

以上、ざっくりとした比較でしたが、やはり「手数分布はガンマ分布に近い」ということが分かりました。お手軽に手数分布の近似値がほしいという場合には、ガンマ分布を使ってみるといいかもしれません。

以前、コラム記事「棋士の手数とレート差:平均手数から棋力が分かる?」において、棋士棋譜集を用いてレート差と手数との間の相関関係を解析し、結果を報告しました。今回は、コンピュータ将棋対局場floodgateの棋譜を用いて、同様の解析を行いたいと思います。棋士とコンピュータとで結果にどのような違いが生じるのかに注目です。まだ前回の記事を読んでおられないという方は、そちらを先に読まれることをお勧めします。

さて、今回の解析に用いるのは、floodgate棋譜集(2012~2015年版)です。それぞれの詳細については、以下の記事をご参照ください。

解析のやり方は基本的に前回と同様です。外れデータを弾くため、30手以上230手以下の投了決着の棋譜に限定した上で、「勝者のレートから敗者のレートを引いたレート差」と「投了手数」との間の相関関係について、線形回帰分析を行います。ここで、手数範囲の上限を、棋士棋譜集の際の200手から、230手に引き上げているのは、floodgate棋譜集の方が平均手数が大きいためです。線形回帰分析については以下の解説記事をご覧ください。

分析の結果は以下のようになりました。ここで、Tは手数、dRはレート差を表しています。

  • 2012年版:棋譜数56902、相関係数-0.1699、\[T = -0.02020 dR + 127.9\]
  • 2013年版:棋譜数78627、相関係数-0.2360、\[T = -0.02417 dR + 132.1\]
  • 2014年版:棋譜数55538、相関係数-0.2744、\[T = -0.02441 dR + 130.8\]
  • 2015年版:棋譜数33577、相関係数-0.3011、\[T = -0.03029 dR + 130.5\]

まずは相関係数の値に注目してみると、前回の棋士棋譜集の解析では、棋譜数47021、相関係数-0.1114という結果でした。それと比較すると、今回の結果は、棋譜数はおおよそ同等程度以上であるのに対して、相関係数の絶対値が大きくなっています。このことは、棋士棋譜集よりもfloodgate棋譜集の方が相関が強いという事を示唆しています。

また、棋士棋譜集の場合にはレート差200以内の対局が9割弱であったのに対して、floodgate棋譜集の場合には半分程度しかなく、レート差の離れた対局が多くなっています。レート差200以内の対局に絞って解析を行うと、以下のようになり、相関係数の絶対値は大きく減少します。

  • 2012年版:棋譜数27429、相関係数-0.0539
  • 2013年版:棋譜数35976、相関係数-0.0547
  • 2014年版:棋譜数20899、相関係数-0.0315
  • 2015年版:棋譜数13489、相関係数-0.0818

このことから、レート差の離れた対局が相関の強さに大きく寄与しているということが分かります。つまり、レート差が大きいと手数差も大きくなるが、ノイズの方はそこまで大きくならないため、結果的に相関が強くなっているということのようです。

次に回帰直線の方に注目すると、棋士棋譜集の解析においては、\[T = -0.02403 dR + 115.8\]という結果でした。今回の結果は、年ごとのばらつきはあるものの、傾きはおおよそ近い値になっています。不思議なことに、レート差100ごとに手数が2.5手くらい変わるというのは、棋士もコンピュータも同じ傾向にあるようです。これが偶然の一致なのか、それとも何らかの機構に由来するものなのかは、このデータからだけでは分かりません。また、レート差がない時(dR = 0)の手数は、floodgate棋譜集の方がおおよそ15手くらい大きくなっており、この結果は「手数と投了 4:floodgateにおける投了手数」の結果と整合しています。

最後に、前回の記事で示したのと同じ疎視化データのグラフをお見せします。ただし、青線は、疎視化データの線形回帰ではなく、上述の回帰直線です。

rate-tesuu_m

棋士棋譜集においては、棋譜の9割弱がレート差200以内の対局に集中していたため、その範囲で明確な線形性を視認することができました。今回の結果では、広範囲に棋譜がばらけているということもあり、ノイズの大きいグラフになっています。

また、レート差が-200以下の「番狂わせ」の領域に着目すると、回帰直線を大幅に下回るデータが他の領域よりも多く見られます。不思議なことに、この傾向もまた棋士棋譜集と同様の結果になっています。コンピュータ将棋においても、「番狂わせ」の一局では通常とは異なった機構が働いているということなのかもしれません。

以上まとめると、floodgate棋譜集においてはレート差と手数との間に負の相関があり、おおよそレート差100ごとに手数が2.5手くらい変わるということが分かりました。この傾向は棋士棋譜集の結果と大体一致しています。棋士同士とコンピュータ同士とでは考え方も対局環境もまるで異なっているわけですが、このように同じ傾向が見られるというのは、仮に全くの偶然によるものであったとしても、興味深いことなのではないでしょうか。

前回までの記事では、棋士棋譜集における投了手数を解析しました。今回は、コンピュータ将棋対局場floodgateの棋譜における投了手数を解析したいと思います。今回の解析は、「手数と投了 2:棋士の投了手数」のfloodgate版に対応しています。

ここで用いるのは、floodgate棋譜集(2012~2015年版)です。それぞれの詳細については、以下の記事をご参照ください。

まずは、規格化された頻度分布を以下に一覧します。規格化は、棋士棋譜集の場合と同様に、先手勝利と後手勝利の棋譜が同数相当になるように行われています。後手勝利の方が先手勝利よりも平均手数が約1手ほど大きくなるというのも、棋士棋譜集の場合と同じです。

floodgate_tesuu_normalized_hindo

平均や標準偏差は棋士棋譜集と異なりますが、分布の概形は似たような形になっています。ただ、棋士棋譜集の場合と比べて、少しグラフのガタつきが目に付きます。2015年版を除き、対象棋譜数は今回の方が多いので、本来はガタつきが減ってもおかしくないのですが、実際にはそうなっていないようです。

次に、平均と標準偏差に注目すると、全ての投了棋譜における値は以下のようになっています。

  • 2012年版:平均 125.3、標準偏差 32.0 (棋譜数 57339、最大手数 572)
  • 2013年版:平均 127.9、標準偏差 32.5 (棋譜数 79377、最大手数 528)
  • 2014年版:平均 124.5、標準偏差 32.8 (棋譜数 55925、最大手数 873)
  • 2015年版:平均 123.4、標準偏差 32.6 (棋譜数 33783、最大手数 272)
  • 2012~2015年版の算術平均:平均 125.3、標準偏差 32.5

ここで注意しなければならないのは、棋士棋譜集の最大手数389手に比べて、2012~2014年版の最大手数が大きくなっているという点です。これは、外れデータの影響がより大きく効いてくる可能性を示しています。2015年版のみ、最大手数が少ないのは、2015年2月1日より、持ち時間が「15分切れ負け」から「10分+秒読み10秒(1秒未満切捨て、256手引き分け)」に変更されているためです。

外れデータの影響を弾くために、投了手数の範囲を30手以上250手以下に限定して計算してみると、以下のようになります。

  • 2012年版:平均 124.8、標準偏差 30.6 (棋譜数 57137)
  • 2013年版:平均 127.2、標準偏差 30.9 (棋譜数 79018)
  • 2014年版:平均 124.0、標準偏差 31.1 (棋譜数 55747)
  • 2015年版:平均 123.3、標準偏差 32.4 (棋譜数 33753)
  • 2012~2015年版の算術平均:平均 124.8、標準偏差 31.3

結果的に、2012~2014年版の平均投了手数においては、外れデータの影響が約0.5手分ほどあったようです。

さらに、注意しなければならないのは、対局者間のレート差の影響です。基本的に、レート差の離れた強者が弱者に勝つ場合には手数が短くなる傾向があり、逆にレート差の離れた弱者が強者に勝つことは稀です。棋士棋譜集の場合には、9割弱がレート差200以内の対局であり、結果的にレート差が平均手数に与える影響は小さなものでした。しかしながら、floodgate棋譜集においては5割弱がレート差200以上の対局となっており、レート差の影響は無視できないものになっています。

レート差の影響を抑えて棋士棋譜集の結果と比較するため、上記の投了手数の範囲限定に加えて、さらにレート差200以内の対局に絞ると、以下のようになります。

  • 2012年版:平均 128.7、標準偏差 31.5 (棋譜数 27578)
  • 2013年版:平均 133.2、標準偏差 32.0 (棋譜数 36231)
  • 2014年版:平均 132.0、標準偏差 32.5 (棋譜数 21035)
  • 2015年版:平均 132.2、標準偏差 33.2 (棋譜数 13608)
  • 2012~2015年版の算術平均:平均 131.5、標準偏差 32.3

結果的に、レート差を絞ると、平均投了手数が約7手ほど伸びることになりました。

以下では、この投了手数の範囲とレート差を限定した場合の結果を解析します。棋士棋譜集の結果と比較する際には、棋士棋譜集の方も同様に限定した場合の結果を用いて比較します。

まず、投了手数の平均に注目すると、年毎にばらつきはあるものの特に目立った傾向は見られません。年を重ねる毎に参加者の棋力は向上しており、また、2015年2月には持ち時間も変更されているわけですが、それらの平均手数への影響は小さいようです。

棋士棋譜集の平均投了手数である約116手と比較すると、おおよそ16手ほど大きくなっています。この結果は、投了の“作法”の違いに由来するものと考えられます。すなわち、棋士が投了する局面でもコンピュータは投了せず、ほとんどは合法手がなくなるまで指し切るため、コンピュータの方が平均的に16手ほど多く指すということになるということです。ただし、棋士同士とコンピュータ同士とで、そもそも詰みまで指し切った時の平均手数が異なるということも十分に考えられるため、棋士の投了の判断について、この結果から直接的に何かを言うことはできません。この点について知りたいのであれば、例えば、棋士の投了局面からコンピュータ同士で指し継ぎをさせて統計をとるなど、更に詳細な研究を行う必要があるでしょう。

次に、投了手数の標準偏差を見てみると、棋士棋譜集における標準偏差が約28手であったのに対して、平均で4手ほど大きくなっています。この結果が何に由来するのかは難しいところです。もしかすると、floodgateの方が多様な対局が行われているということを示唆しているのかもしれませんし、棋士の投了判断に平均手数を意識した要素がある(すなわち、手数が短い時には投了が遅くなる等の傾向がある)ということを示唆しているのかもしれません。この結果からだけでは何とも言えません。

棋士棋譜集の際に解析した長手数のテール部分については、2015年2月以降は256手ルールのために存在せず、それ以前も15分切れ負けであったため、解析する意義に乏しいと思われます。なので、ここでは取り扱いません。

以上まとめると、floodgate棋譜集の投了手数においては、長手数の外れデータの影響、並びに対局者間のレート差の影響が大きいため、それらの影響を抑えて解析する必要があります。投了手数の範囲を30手以上250手以下、レート差200以内に限定した場合、平均投了手数はおおよそ132手で、棋士棋譜集よりも約16手ほど大きくなっています。また、標準偏差は約32手で、棋士棋譜集よりも約4手ほど大きくなっているということも分かりました。

今回の結果は、floodgateのシステムや参加者に依存したものであり、多種多様なコンピュータが対局しているというデータ上の利点がある反面、データ的なノイズや歪みが大きいという弱点もあります。次回は、均質な環境下における自己対局による棋譜データを用いた解析を行います。

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追記:2016年版について(2017年1月7日)

2016年版については以下の記事をご参照ください。

全ての投了棋譜における結果は、

  • 2016年版:平均 133.2、標準偏差 32.6 (棋譜数 22795、最大手数 255)

となっており、投了手数の範囲を30手以上250手以下に限定した場合は、

  • 2016年版:平均 133.1、標準偏差 32.3 (棋譜数 22766)

となっており、さらにレート差200以内の対局に絞った場合は、

  • 2016年版:平均 143.1、標準偏差 33.8 (棋譜数 9667)

となっています。

2016年版は、標準偏差はほぼ変わっていませんが、平均手数が10手ほど大きくなっています。この原因は後の記事で分析します。

2016年版の全ての投了棋譜の規格化された頻度分布は下図のようになっています。

floodgate_tesuu_normalized_hindo_2016

前回の記事「“将棋の神様”ってなんだろう? 1:本居宣長と小林秀雄」では、本居宣長の分析を援用することで、“将棋の神様”が日本の「神様」ではないことを示し、また、原典であると推測される小林秀雄のエッセイ「常識」を紹介することで、そこでの“将棋の神様”が思考実験のための道具として考え出されたものであるということを説明しました。今回は、“将棋の神様”の定義について、詳しく考えます。

前回に紹介したように、小林秀雄が考えたのは「読みというものが徹底した将棋の神様」でした。結果的に、“将棋の神様”同士の対局では「先手必勝であるか、後手必勝であるか、それとも千日手になるか、三つのうち、どれかになる」ということになります(※ルール次第ではその他もありえますが、ここではこれらに決まる場合に限定し、また、持ち時間についても考えないことにします)。

これは言い換えると、将棋の全ての指し手の可能性について全知であるということであり、このことは数学的には「完全解析」と呼ばれます。「完全解析」というと、なにか物々しい感じですが、中身は、小林秀雄の言う通り、誰もが考える「常識」的なことです。ちなみに、将棋の場合には、局面数の膨大さから、「完全解析」は現実的には不可能であると考えられています。ただし、動物将棋等のように、局面数がさほど多くないゲームであれば、実行可能であり、実際にコンピュータの計算によって実現されています。また、先手必勝等の結果を知りたいだけであれば、必ずしも全ての局面を網羅する必要はなく、「完全解析」にもいくつかの種類が存在します。ここでは、そのような種類の詳細にはこだわらずに、全ての局面を網羅した全知として考えましょう。

ここで一つ注意しなければならないのは、「完全解析」は誰もが思いつく「常識」的な疑問であり、言い換えると、一般的興味が高い研究課題ということになるわけですが、「一般的興味の高さ」は必ずしも「学問的な重要さ」とは一致しないということです。時折、「コンピュータ将棋の究極の目的は完全解析」「完全解析されたら将棋は終わる」等と「完全解析」を過度に重視する意見を見かけますが、本当にそれが研究コストに見合うだけの課題であるのかはよく検討してみなければなりません(例えば、「完全解析」はルールが少し変わるだけで白紙に戻るという程度に普遍性に欠ける等々)。前回の中谷宇吉郎先生の言葉を借りれば、「自業自得だ」「科学者は、そういう世界は御免こうむる事にしてるんだ」というような意見もあるわけです。コストが低く、すぐにできる可能性があることなら、何も考えずにやってしまえばいいのですが、そうでないのなら、事前によく検討する必要があります。

さて、小林秀雄は「完全解析」以外にも、もう一つ全知を仮定しています。すなわち、「振り駒の偶然も見透し」という「予知」能力です。これは、振り駒以外にも相手の指し手の「読み」についても「予知」できると考えるべきでしょう。もしそうでないと、勝敗が決まっていたとしても、どのように勝つ/負けるかを楽しむ「遊戯」が成立してしまって、思考実験の結果が変わってきてしまいます。

つまり、“将棋の神様”の全知とは「完全解析」と「予知」の二つの能力を意味していることになります。

ここで、鋭い方なら、ある疑問が頭に浮かぶかもしれません。「予知能力が小林秀雄の思考実験に不可欠なのはいいとして、完全解析能力は果たして必要なんだろうか?」と。

実際に、小林秀雄の思考実験においては、この局面ではこう指してくるということが分かる完全な予知能力さえあれば、予知により、そのゲームにおける最善手を選択することができるので、完全解析能力がなくても同様の結果を得ることが可能です。すなわち、「完全解析」と「予知」はセットである必要はなく、特に小林秀雄の思考実験においては「完全解析」は必要なかったということになります。

定義を整理するために、“将棋の神様”を3つに分類しましょう。

  1. 「完全解析」能力を有する“完全解析神”
  2. 「予知」能力を有する“予知神”
  3. 両方を有する“完全解析兼予知神”

両方とも持っていない場合は“将棋の神様”ではないとします。

“完全解析神”、並びに“完全解析兼予知神”は、将棋の完全解析が非現実的であるため、実現することは不可能だとされています。一方で、“予知神”は、「待った」を使えば、誰でも簡単にシミュレートすることができます。すなわち、「負けそうになったら、いくらでも『待った』をして任意の局面に戻れる、ただし、相手は同じ局面では同じ手しか指せずに手を変更することはできない」というルールの下で決着がつくまで指せばいいだけです。これはコンピュータ・ゲームとして実装することもできますが、それこそ「遊戯」として成立しないことは「常識」だと思われます。

“神様”同士の戦いにおいては、三者はどの組み合わせであっても結果は同じになります。すなわち、将棋が先手必勝なら先手必勝、後手必勝なら後手必勝、最善が引き分けなら引き分けになるということです。

しかし、“神様”以外のもの(機械もありますが、ここでは人間としましょう)と対局する場合には結果が変わってきます。

結果が簡単なのが、“予知神”、並びに“完全解析兼予知神”の場合で、定義により、人間相手には全勝となります。人間は絶対にどこかで間違えるからです。予知ができる相手に対しては偶然も通用しません。

“完全解析神”の場合には、完全解析の結果に依ってきます。

最善が引き分けの場合には、引き分けになるように指していき、人間が間違えたら、勝つということになるでしょう。確実に勝てる他の“神様”の場合とは異なり、相手の人間次第ということになります。また、予知が可能である場合には、引き分けの筋から外れる手でも、その後に相手が間違えることが予知されていれば、指して勝つことができますが、“完全解析神”は予知ができないので、間違いを誘う手を指すことはできません。もし、引き分けの最善筋が人間が記憶できる程度の量であったとすると、対策済みの人間には、ほぼ引き分けになるという可能性もあります。

先手必勝の場合には(先後をひっくり返せば、後手必勝の場合も同様)、先手の時には必勝ですが、後手の時には困ったことが起こります。先手が初手で間違えない限り、後手は勝ち筋がないので指し手を選ぶことができないのです。勝率的に最悪なのは、そのまま投了することで、これだと初心者相手でも初手の対策をされたら5割しか勝てません。合法手からランダムに選ぶという場合でも、高段者相手だと5割ちょっとしか勝てないのではないかと思います。勝率を上げるには、手数を伸ばす手がいいのか、相手の正解手候補が少なくなるような間違いを誘う手がいいのか、機械を使ってソフト指しをすればいいのか(この場合は、その機械単体よりも勝率が上になります)、様々な可能性が考えられますが、いずれにしても、勝ち筋がない時の指し回しについての新たな定義を加えないと“完全解析神”は機能しないということになります。この問題は、駒落ちの上手の場合でも同様に起こります。

以上のように、思考実験の道具として見た場合には、“将棋の神様”の中では“完全解析神”が飛び抜けて複雑なことになっています。しかしながら、コンピュータ将棋の界隈においては、筆者が目にする限りでは、“将棋の神様”として“完全解析神”が想定されていることが多いようです。これは、「完全解析」が過度に重視された結果として、“完全解析神”がコンピュータ将棋の一つの極限形だとみなされているからだと思われます。ただし、“完全解析神”が本当に考える意義のある極限であるのかどうかについては全く自明ではなく、思考実験を組む際には、その点からよく検討してみた方がよいでしょう。

今回は、“将棋の神様”について、詳細に考えてみました。“将棋の神様”は思考実験のための道具であり、能力によって分類され、また、実験内容によっては追加的な定義が必要になることがあるということが分かりました。“将棋の神様”を用いる際には、実験の目的を鑑みて、適切かつ明確な定義を選ぶことが重要になります。

コンピュータ将棋の世界では、まれに“将棋の神様”というものが話題に上ることがあります。これは別に、そういう名前の将棋ソフトがあるとか(将棋ウォーズに「棋神」というサービスはありますが)、そう呼ばれている人がいるとかいうことではなく、抽象的な何かを表す用語として、そういう言葉があるということです。

この“将棋の神様”は、日常用語としての「将棋の神様」とは少し異なっており、一種の専門用語であると解釈できます。ただし、専門用語ならば、本来は定義が明確でなければならないのですが、この言葉については必ずしも明確な定義があるというわけでもなく、なかなかに不思議な言葉なのです。

今回は、この“将棋の神様”というものについて、少し考えてみましょう。

本居宣長による日本の「神様」の定義

まずは、日本語の日常用語としての「神様」について、おさらいをしておきます。

日本の「神様」の定義は、本居宣長の古事記の注釈書である「古事記伝」に記された

尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物(もの)を迦微(かみ)とは云(いう)なり

が有名です。つまり、尋常じゃなくすごくて畏怖の念を感じさせるものであれば、貴賎も強弱も善悪も関係なく、何でも「神様」だというわけです。

ここでのポイントは、「神様」の定義が「畏怖」という感情によって決められているという点にあります。人間が理性的に何か基準を定めて「神様」を定義しようとしても、「神様」は人間の認識を超える存在なわけですから、測定して定義することは不可能であり、人間は感じることしかできないというわけです。

この本居宣長の理論の是非はさておき、日本の「神様」が「畏怖」の感情に由来することは確かでしょう。従って、日常用語における「将棋の神様」とは「尋常じゃなくすごいと感じさせる将棋を指す人・物」のことになります。また、これは人々の感じ方の問題であって、レートがいくつだとか、業績がどれくらいだとか、そういう客観的な評価は関係ないということが分かります。

さらに、本居宣長は「鈴屋答問録」において荒木田経雅の質問に答えて以下のように語っています。

皇国(みくに)にていうかみは、実物の称(な)にいえるのみにて、物(もの)なきに、ただ其(その)理(ことわり)を指(さし)ていえることはなき也(なり)。

つまり、日本の「神様」は、実際の物や人に限定されていて、抽象的な概念や理論は除外されるということです。このことは中国の「神」との対比で語られており、そもそも「カミ」に「神」の字を当てることの問題も指摘されています。この話を現代に敷衍すると、ほとんどの宗教における「神」は理論の土台や一部として実体を有しないものであり、日本の「神様」の定義からは外れます。それゆえ、「翻訳に問題があるのではないか」という論点も生じますし、また「神道は宗教なのか」という論点も生じます。

この本居宣長の解釈を「将棋の神様」に当てはめると、例えば、将棋を指す機械は「神様」になる可能性がありますが(「電王手さん」が本体の一部なのかは難しいところですが)、ソフトウエアや仕組み(アルゴリズム)自体は「神様」にはなれないということになります。この辺は、ものづくりを重視する国柄っぽい感じがします。

さて、冒頭で述べたように、コンピュータ将棋で語られる“将棋の神様”というのは抽象的な概念なので、本居宣長の分析によれば、日本の「神様」には該当しません。ということは、“将棋の神様”というのは、少なくとも近代以降に、誰かが考え出した概念だと推測されます。それでは、誰が考えたものなのかというと、おそらくは小林秀雄だと思われます(※筆者は書誌学は全くの門外漢であるため、もしかすると、さらに古い由来が存在するかもしれません)。

小林秀雄の“将棋の神様”

小林秀雄の有名な著作の一つに「考えるヒント」というものがあります。これは「文藝春秋」に連載された短編エッセイをまとめたものであり、受験国語の必須図書に指定されることが多いため、高学歴の人間に偏って読者が多いと推測される少し特殊な本です。一般的に人間は先に取得した方の知識を偏重する性質があるとされるため、大学受験前の若い頃に読まれる本書は、特定の層に対して、知名度以上に影響力のある本だと言えるでしょう。

その最初のエッセイが「常識」(文藝春秋、昭和三十四年六月)であり、当時はまだ架空の存在であったコンピュータ将棋を題材にしています。最初の作品というのは印象に残りやすく、また、本を途中で投げ出したという人も読んでいることが多いため、本作は特に影響力の大きい作品になっています。

この作品は、自身が翻訳した1836年発表のエドガー・アラン・ポーのエッセイ「メールツェルの将棋差し(題名ママ)」の話から始まります。これは、1770年に作成されたチェスを指す自動機械「トルコ人」について、ポーがトリックを考察するという内容です。もちろん、当時の技術ではそのような機械を作成することは不可能ですので、これは手品であり、現在ではトリックも判明しています(ポーの推理とは違ってましたが)。

その後、小林秀雄自らが「東大の原子核研究所に将棋を指す『電子頭脳』がある」というデマに踊らされたという話を書き、自分達も「トルコ人」に騙されていた人たちを笑えないのではないかと内省します。

その流れで唐突に、題名の「常識」という言葉と共に、“将棋の神様”が登場します。

常識で考えれば、将棋という遊戯は、人間の一種の無智を条件としている筈である。名人達の読みがどんなに深いと言っても、たかが知れているからこそ、勝負はつくのであろう。では、読みというものが徹底した将棋の神様が二人で将棋を差したら、どういう事になるだろうか。実は、今、この原稿を書きながら、ふとそんな事を考えてみたのである。

普通に考えると、似非科学系のデマに騙されるというのは科学技術に対する認識や専門知識が不足しているためであると考えられるわけですが、ここでの小林秀雄はそういう立場は採らず、専門知識に頼らなくても、「常識」を働かせるだけでデマに対応できるのではないかと考え、思考実験を始めたというわけです。

その後、著名な物理学者である中谷宇吉郎に銀座で偶然に出会って、この疑問について尋ねています(銀座なので酒席でしょうか)。

「仕切りが縦に三つしかない一番小さな盤で、君と僕とで歩一枚ずつ置いて勝負をしたらどういう事になる」と先ず中谷先生が言う。

「先手必敗さ」

「仕切りをもう一つ殖やして四つにしたら……」

「先手必勝だ」

「それ、見ろ、将棋の世界は人間同士の約束の世界に過ぎない」

「だけど、約束による必然性は動かせない」

「無論だ。だから、問題は約束の数になる。普通の将棋のように、約束の数を無闇に殖やせば、約束の筋が読み切れなくなるのは当り前だ」

「自業自得だな」

「自業自得だ。科学者は、そういう世界は御免こうむる事にしてるんだ」

「御免こうむらない事にしてくれよ」

「どうしろと言うのだ」

「将棋の神様同士で差してみたら、と言うんだよ」

「馬鹿言いなさんな」

「馬鹿なのは俺で、神様じゃない。神様なら読み切れる筈だ」

「そりゃ、駒のコンビネーションの数は一定だから、そういう筈だが、いくら神様だって、計算しようとなれば、何億年かかるかわからない」

「何億年かかろうが、一向構わぬ」

「そんなら、結果は出るさ。無意味な結果が出る筈だ」

「無意味な結果とは、勝負を無意味にする結果という意味だな」

「無論そうだ」

「ともかく、先手必勝であるか、後手必勝であるか、それとも千日手になるか、三つのうち、どれかになる事は判明する筈だな」

「そういう筈だ」

「仮りに、先手必勝の結果が出たら、神様は、お互いにどうぞお先きへ、という事になるな」

「当り前じゃないか。先手を決める振り駒だけが勝負になる」

「神様なら振り駒の偶然も見透しのわけだな」

「そう考えても何も悪くはない」

「すると神様を二人仮定したのが、そもそも不合理だったわけだ」

「理窟はそうだ」

「それで安心した」

「何が安心したんだ」

「結論が常識に一致したからさ」

つまり、全知である“将棋の神様”同士なら、結果が分かってしまうので、遊戯として成立しないということから、「将棋という遊戯は、人間の一種の無智を条件としている筈である」(故に計算だけではなく判断が必要とされる)という「常識」が確認されるというわけです。ここでの中谷先生の受け答えは、科学者として妥当なものだと思われます。

実は、“将棋の神様”が出てくるのは、ここまでです。この後は、「機械には、物を判断する能力はない、だから機械には将棋は差せぬ(原文ママ)」のが「常識」だとして、専門知識に頼らずに「電子頭脳」の存在を否定することに成功し、当時の社会を覆っていた近代的進歩主義に抗するものとしての「常識」の重要性が説かれるという展開になっています。この主張について、現在の視点で是非を論じるのは妥当ではないでしょう。有している情報(並びに、その取得順序)や環境が違えば、考え方が違ってくるのは当然のことです。

結局のところ、原典がこの作品であるのならば、“将棋の神様”というのは、思考実験のための道具として小林秀雄が考え出したものであったということになります。コンピュータ将棋の界隈においても、筆者が目にする範囲では、基本的には思考実験の道具として語られていることが多いようです。もし思考実験の道具であるのならば、確定した定義がなく、その都度、定義が異なるというのも理解できます。

また、“将棋の神様”が、日本の「神様」を意味しているのではなく、“全知”なる存在としての“神様”を意味しているのは、「人間の一種の無智」と対比されていることからも明らかでしょう。ただし、ここでの“全知”には複数の解釈が可能であり、これもまた定義が唯一に定まらない要因となっています。

長くなってきましたので、定義の詳細な分析は次回に行うことにしましょう。

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