前回の記事「“将棋の神様”ってなんだろう? 1:本居宣長と小林秀雄」では、本居宣長の分析を援用することで、“将棋の神様”が日本の「神様」ではないことを示し、また、原典であると推測される小林秀雄のエッセイ「常識」を紹介することで、そこでの“将棋の神様”が思考実験のための道具として考え出されたものであるということを説明しました。今回は、“将棋の神様”の定義について、詳しく考えます。
前回に紹介したように、小林秀雄が考えたのは「読みというものが徹底した将棋の神様」でした。結果的に、“将棋の神様”同士の対局では「先手必勝であるか、後手必勝であるか、それとも千日手になるか、三つのうち、どれかになる」ということになります(※ルール次第ではその他もありえますが、ここではこれらに決まる場合に限定し、また、持ち時間についても考えないことにします)。
これは言い換えると、将棋の全ての指し手の可能性について全知であるということであり、このことは数学的には「完全解析」と呼ばれます。「完全解析」というと、なにか物々しい感じですが、中身は、小林秀雄の言う通り、誰もが考える「常識」的なことです。ちなみに、将棋の場合には、局面数の膨大さから、「完全解析」は現実的には不可能であると考えられています。ただし、動物将棋等のように、局面数がさほど多くないゲームであれば、実行可能であり、実際にコンピュータの計算によって実現されています。また、先手必勝等の結果を知りたいだけであれば、必ずしも全ての局面を網羅する必要はなく、「完全解析」にもいくつかの種類が存在します。ここでは、そのような種類の詳細にはこだわらずに、全ての局面を網羅した全知として考えましょう。
ここで一つ注意しなければならないのは、「完全解析」は誰もが思いつく「常識」的な疑問であり、言い換えると、一般的興味が高い研究課題ということになるわけですが、「一般的興味の高さ」は必ずしも「学問的な重要さ」とは一致しないということです。時折、「コンピュータ将棋の究極の目的は完全解析」「完全解析されたら将棋は終わる」等と「完全解析」を過度に重視する意見を見かけますが、本当にそれが研究コストに見合うだけの課題であるのかはよく検討してみなければなりません(例えば、「完全解析」はルールが少し変わるだけで白紙に戻るという程度に普遍性に欠ける等々)。前回の中谷宇吉郎先生の言葉を借りれば、「自業自得だ」「科学者は、そういう世界は御免こうむる事にしてるんだ」というような意見もあるわけです。コストが低く、すぐにできる可能性があることなら、何も考えずにやってしまえばいいのですが、そうでないのなら、事前によく検討する必要があります。
さて、小林秀雄は「完全解析」以外にも、もう一つ全知を仮定しています。すなわち、「振り駒の偶然も見透し」という「予知」能力です。これは、振り駒以外にも相手の指し手の「読み」についても「予知」できると考えるべきでしょう。もしそうでないと、勝敗が決まっていたとしても、どのように勝つ/負けるかを楽しむ「遊戯」が成立してしまって、思考実験の結果が変わってきてしまいます。
つまり、“将棋の神様”の全知とは「完全解析」と「予知」の二つの能力を意味していることになります。
ここで、鋭い方なら、ある疑問が頭に浮かぶかもしれません。「予知能力が小林秀雄の思考実験に不可欠なのはいいとして、完全解析能力は果たして必要なんだろうか?」と。
実際に、小林秀雄の思考実験においては、この局面ではこう指してくるということが分かる完全な予知能力さえあれば、予知により、そのゲームにおける最善手を選択することができるので、完全解析能力がなくても同様の結果を得ることが可能です。すなわち、「完全解析」と「予知」はセットである必要はなく、特に小林秀雄の思考実験においては「完全解析」は必要なかったということになります。
定義を整理するために、“将棋の神様”を3つに分類しましょう。
- 「完全解析」能力を有する“完全解析神”
- 「予知」能力を有する“予知神”
- 両方を有する“完全解析兼予知神”
両方とも持っていない場合は“将棋の神様”ではないとします。
“完全解析神”、並びに“完全解析兼予知神”は、将棋の完全解析が非現実的であるため、実現することは不可能だとされています。一方で、“予知神”は、「待った」を使えば、誰でも簡単にシミュレートすることができます。すなわち、「負けそうになったら、いくらでも『待った』をして任意の局面に戻れる、ただし、相手は同じ局面では同じ手しか指せずに手を変更することはできない」というルールの下で決着がつくまで指せばいいだけです。これはコンピュータ・ゲームとして実装することもできますが、それこそ「遊戯」として成立しないことは「常識」だと思われます。
“神様”同士の戦いにおいては、三者はどの組み合わせであっても結果は同じになります。すなわち、将棋が先手必勝なら先手必勝、後手必勝なら後手必勝、最善が引き分けなら引き分けになるということです。
しかし、“神様”以外のもの(機械もありますが、ここでは人間としましょう)と対局する場合には結果が変わってきます。
結果が簡単なのが、“予知神”、並びに“完全解析兼予知神”の場合で、定義により、人間相手には全勝となります。人間は絶対にどこかで間違えるからです。予知ができる相手に対しては偶然も通用しません。
“完全解析神”の場合には、完全解析の結果に依ってきます。
最善が引き分けの場合には、引き分けになるように指していき、人間が間違えたら、勝つということになるでしょう。確実に勝てる他の“神様”の場合とは異なり、相手の人間次第ということになります。また、予知が可能である場合には、引き分けの筋から外れる手でも、その後に相手が間違えることが予知されていれば、指して勝つことができますが、“完全解析神”は予知ができないので、間違いを誘う手を指すことはできません。もし、引き分けの最善筋が人間が記憶できる程度の量であったとすると、対策済みの人間には、ほぼ引き分けになるという可能性もあります。
先手必勝の場合には(先後をひっくり返せば、後手必勝の場合も同様)、先手の時には必勝ですが、後手の時には困ったことが起こります。先手が初手で間違えない限り、後手は勝ち筋がないので指し手を選ぶことができないのです。勝率的に最悪なのは、そのまま投了することで、これだと初心者相手でも初手の対策をされたら5割しか勝てません。合法手からランダムに選ぶという場合でも、高段者相手だと5割ちょっとしか勝てないのではないかと思います。勝率を上げるには、手数を伸ばす手がいいのか、相手の正解手候補が少なくなるような間違いを誘う手がいいのか、機械を使ってソフト指しをすればいいのか(この場合は、その機械単体よりも勝率が上になります)、様々な可能性が考えられますが、いずれにしても、勝ち筋がない時の指し回しについての新たな定義を加えないと“完全解析神”は機能しないということになります。この問題は、駒落ちの上手の場合でも同様に起こります。
以上のように、思考実験の道具として見た場合には、“将棋の神様”の中では“完全解析神”が飛び抜けて複雑なことになっています。しかしながら、コンピュータ将棋の界隈においては、筆者が目にする限りでは、“将棋の神様”として“完全解析神”が想定されていることが多いようです。これは、「完全解析」が過度に重視された結果として、“完全解析神”がコンピュータ将棋の一つの極限形だとみなされているからだと思われます。ただし、“完全解析神”が本当に考える意義のある極限であるのかどうかについては全く自明ではなく、思考実験を組む際には、その点からよく検討してみた方がよいでしょう。
今回は、“将棋の神様”について、詳細に考えてみました。“将棋の神様”は思考実験のための道具であり、能力によって分類され、また、実験内容によっては追加的な定義が必要になることがあるということが分かりました。“将棋の神様”を用いる際には、実験の目的を鑑みて、適切かつ明確な定義を選ぶことが重要になります。
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